つねにふりだし【 起立性調節障害と不登校 】

起立性調節障害から不登校になった娘との日常

母が抱える罪悪感はアレに似ている

こんにちはsabi-seijiです。

今日は私の心の移り変わりを綴ってみたいと思います。「そんなん、興味ないわ!」とおっしゃらずにお付き合いくださると嬉しいです。

 

 

娘がいない日

 

今日は娘のクッキングの日。

 

 

sabi-seiji.hatenablog.com

 

そう!朝の「おひとりさま時間」が久しぶりにやってきたのです!何がそんなに嬉しいかって?

 

不登校の子どもがいるということは、いつものこの時間、ずーっと子供が家にいるのです。「保育園に入所前の子供を持つママさん」を想像していただけるとおわかりかと思います。

 

もちろん子供は大きくなっているので、「ティッシュを箱から手品師のように引っ張り出そう」としたり、「床に落ちているゴミをじーっと見さだめ、スキあらば食べよう」とすることはありません。

 

そういった緊張感はないにしろ、同じ屋根の下に自分以外に人がいるという状況は、やはり気を使います。

 

パジャマのまま、ぼーっとしながら一時間かけて優雅に朝食をとっている娘に

 

「どこの貴族だ!」

 

とイライラすることもありません。

 

どことなくウキウキして、ひとりでコーヒーを飲んでいる瞬間さえ新鮮に感じます。

 

ということは、私は娘に対して家族とはいえ、どこかしら気を使っている状態だということです。私はきっと、毎日繰り返されるこの時間が苦手なのです。

 

いつもと違うスッキリ感

 

 そんな空間にイライラした場合、私は娘に干渉しないよう、娘のことは放っておいてサッサと仕事場へ向かいます。でも、

 

それとは違うスッキリ感があるのはなぜだろう?

 

一体、何が違うんだろう?

 

娘が家にいて私が家を離れている場合、娘はいつものように、食べ終わる頃には昼時になる朝食を優雅に食べ、テレビでお昼の情報番組を堪能し、午後からはYouTubeをハシゴする。といういつもの行動サイクルが、離れていても手に取るようにわかります。

 

ところが、私が家にいて娘が外出している場合は、娘は何かしらの目的を持ち、自ら行動しているということです。

 

なんと素晴らしいことでしょう!

 

なんて誇らしいことでしょう!

 

いつものモヤモヤ感がないのです。なんだか心が晴れやかなのです。行き先が学校かどうかなんて関係ありません。自分で考え、自分の足で歩いている娘の姿を見ることが嬉しいのです。

 

どこかで感じる罪悪感

 

毎日クッキングへ通うわけにも行きませんので明日からはまた同じ日常が始まります。今日を喜びすぎると明日からの日常がしんどく感じるので、平常心を保とうと、どこか気持ちにブレーキをかけている自分がいます。

 

娘が不登校で苦しんでるのに、家にいないことを喜ぶ母親って、ひどいんじゃない?

 

と思われるんじゃないか?と心のどこかで思ってしまいます。ちょっとした罪悪感を感じているんですね。でも…母も人間です。この数時間の喜びが、明日からの活力になると考えると、喜んでもいいんじゃない?いえーい!とも思います。

 

まとめ 私の罪悪感はアレに似ている

 

ありゃ?これ…

 

自宅で介護している親をデイサービスに預ける時に感じる罪悪感

 

に似てませんかね?

 

f:id:sabi-seiji:20190131153139p:plain

 

プライバシーポリシー